Ham's Life 4186

WINNER-TAKE-ALL

「ウィナー・テイク・オール」(THE WINNER-TAKE-ALL SOCIETY)(Robert H. Frank (原著), Philip J. Cook (原著), 香西 泰 (翻訳))
を読んだ。
「ひとり勝ち社会」すなわち、少数の勝者に富が集中する社会が進行しているということ。

富があるほど富が得やすいのは、昔から変わらないことだと思うが、この本の主旨は、そうした構図が社会全体の広範な領域に広がり、激化している、ということだ。
利益の分配の過程で、中流や中堅が減少し、勝者とその他大勢に分配される。当然、皆勝者になりたいから、あらゆるジャンルで競争が激化する。
勝者の利益が大きい業界に人が集中するため、他のジャンルでは有用だったはずの人材の浪費が生じる。

勝者に利益が集中する理由は業界により様々としているが、主な理由として経済と文化のグローバル化を挙げている。規模の経済が働くジャンルでは、トップの人材の微妙な能力差が企業収益に大きく影響するし、有名人かどうかでベストセラーになる確率が大きく変わるわけだ。

しかし、この原因については、それだけではないのでは?と思わずにはいられない。著者もその辺は理解した上で書いているようだが。

資本主義の本来の姿に戻ろうとしているだけでは?とも思う。
共産主義の壮大な実験が失敗に終わり、社会主義的の良い面さえも軽視された結果なのでは。
著者の提示する対処法が、適切な税金と規制、という無難な結論になっているのも、社会主義的要素の重要性を再認識すべきように思える。

この本は経済書なので、そのような社会で個人がどのように生きていくかは問題にしていない。
ほとんどの日本人は、今まで馴染んできた中流意識が保てれば、そこそこ満足するはずだが、残念ながら中流階級はなくなってしまうようだ。
そこで仕方なく(?)皆勝者をめざして競争するが、当然ほとんどの人はその他大勢に留まることになる。
その他大勢の暮らしが過酷なものであれば、社会は安定せず、治安も悪化するだろう。


私はこの本を図書館で借りてきたのだが、いったい何故この本を借りてきたのだろう。
もともと山田風太郎の忍者物でも読もうと思っていたのに。
「ひとり勝ち社会」というフレーズが、現在日本に立ち現れつつ社会の姿にフィットすると思ったからだろうか。
私はアメリカ的な勝つ事に貪欲な表現スタイルにはうんざりする方だが、それでも勝つ事の重要性を認識するためだろうか。

理由はわからずじまいだが、図書館の効用はそういうところにある。
館内をうろうろしている時に、ふと気になって手に取った本は、自分の無意識が望んだものだ。
野菜不足の時に、体が自然と野菜を欲するように、この本も栄養として必要だったのだろう。


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チベットの思ひ出

おひさしぶりです!
前回のリリースから2ヶ月半、ようやくTapurのバージョンアップができました。
なんか、リリースしないと、怠けているような気がしてブログが書けない。

Googleの登場から始まったWEB2.0・・・ブログ、RSS、P2P、AJAX、PODCAST、VOIP、アフィリエイトなどなど、いろいろあり、今年はDogYearだそうだ。
が・・・リリースして気が抜けたせいか、なんだか、こういう事柄について、いちいち書きたくない。(すまない、テクノラティから来た人)
100年経てば、きっとどれも一言でくくられてしまうような事に違いない。

20歳代後半から30歳代前半まで、よく旅をしていました。
その中で一番印象深く、もう一度行きたい場所ナンバーワンで、おそらく二度と行かないであろう国があります。

それはチベット。
情報と物に溢れた日本とは、対称的な国でした。

ほとんど何もありません。
どこまでも続く荒れた大地に、ただ蒼い空が広がるばかり。
雨もほとんど降らないし、ショボイ草をヤク牛が食べるだけ。
そして、そのヤク牛の肉やミルクで人は生きていくだけ。

チベット仏教では現世は来世のためにあるとされていますが、彼の地を旅していると、そうでも思わなければやっていけないよな、と思います。

地方によっては、湖や川に恵まれた場所もあり、空気が薄いためか、そうした土地の緑は目に痛いように美しかった。

機会があり、現地で鳥葬に参列したことがありました。
我々が鳥葬に抱くイメージは、遺体の肉を切って空に投げると、鳥がくわえて飛んでいく・・・というものだと思いますが、実際は終始地面で行います。

鳥葬といっても、要するにお葬式なので、我々がお葬式に参加する際の雰囲気とそんなに違いはありません。
不幸な死に方ではなかったのか、遺族の人たちは、淡々と世間話をしたり、タバコをふかしたりしながら式を待っていました。

式の準備が始まり、布で来るんだ遺体が運びこまれると、どこからともなくハゲタカが続々と地上に舞い降りてきます。
そんなに飛んでたか? と思うぐらいの数です。
何十羽も押し合いへし合いしながら、待ちわびているわけです。

肉屋のような遺体処理専門の坊さんが、時間が経って変色した遺体をナタでバサバサ切り分けていきます。
参列者にはここで一仕事あります。
ハゲタカたちがフライングしないように、スクラムを組んで鳥たちをけん制しなければなりません。

坊さんが肉を切り分け、土俵のような葬祭場におき、参列者がスクラムを外すと、鳥たちが一斉に遺体に群がります。
鳥の数が多いので、あっという間になくなってしまいます。

でも、骨と頭蓋骨が残ります。
さすがにハゲタカでも人間の骨を飲み込むのは無理なので。

ひとしきりハゲタカたちが肉を食い尽くすと、鳥をいったん追い払います。
そして骨と頭蓋骨を回収し、巨大なハンマーで叩き潰し、粉々にし、小麦粉と混ぜて固めます。
この時、頭蓋骨の一部は遺品として残し、キレイに磨いて遺族に渡されます。

ハンバーグのようになった骨を再度葬祭場に戻し、ハゲタカに食べさせて終わりです。
1人の人間が、文字通り跡形もなくこの世から消えてしまいました。

儀式は景色の良い山の上で、終始淡々と行われました。
厳粛というより、淡々と過ぎていった印象です。
空に還るというより、食物連鎖の輪の中にもどっていったような気がしました。
人が生きていける臨界点に近いような場所では、人の死をも他の生き物の命に変えていくのは、当然の理なのでしょう。

『何』もないような場所では、わずかに残された『何か』が際立つのですね。